教会報より

「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、…何の役に立たないでしょう。」 (ヨハネによる福音書6:9)

 主イエスが五千人に食べ物を与えられた場面です。弟子はたくさんのお金を所持していました。しかし、五千人の腹を満たすには足りません。それは常識的な判断、合理的な計算によるものです。そこに、一人の少年が主イエスの元に来るのです。そして、はっきりとは書かれていませんが、恐らく、それを“差し出した”。

 大麦ではパンはうまく焼けません。この少年は貧しかったのではないか、と考える人もいます。とにかく、この少年は主イエスに差し出した。取るに足らない、しかし精いっぱいのものを、主イエスは受け取られた。そして、「感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた」。

 大隅啓三先生は言います。「あの少年の善意は、この世の計算を軽く飛び越して、大きな働きをしました。この子は自分の事は忘れて、イエス様とみんなのためにパンと魚を提供したのです。それがどれ程の役に立つかも計算しなかったでしょう。…キリストのご用にと喜んでささげたものが、このように祝福されて、大勢の人々を満ち足らせ、仕合せの素材になり得たのです。」

「ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。」(ガラテヤ4:7)

 わたしたちにとっての福音とは何か、救いとはつまりどういうことか、その問いに対する一つの答えは、私たちが神の子とされた、という事実です。天におられる私たちの父よ、と呼ぶ時に、その原点にいつも立ち帰ります。

昔の信仰の先輩たちは「神の赤子」という言葉を愛用しました。生まれて間もない、完全な保護の中でしか生きられない、しかもその親がイエス・キリストの父なる神である、というところに、信仰の大きな喜びがあるのです。

伊勢神宮のすぐ近くに立つ教会で長年伝道したある牧師は言いました。「私たち罪人が天にいらっしゃる神を『父よ』と呼べるように、神さまの方が完璧な手続きを執ってくださった。だから恐れることはない」。愛の手続きです。それは痛ましい手続きでもありました。独り子イエスを犠牲にして死に渡し、罪の奴隷である私たちを、子として取り戻す。命をかけて私たちを正しく生かそうとなさる神を、「わたしたちの父」と呼ぶのです。そこで神の子である、神の赤子である、という事実を心に刻む。その幸いは本当に大きいものです。だから、一年に一度お参りすれば、不幸な時だけ祈願すれば、ということではありません。毎主の日ごとに礼拝し、毎日「父よ」と呼びかけて、その喜びを確認するのです。

「食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、『ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか』と言われた。」(ヨハネ21:15)

 甦りの主イエスに、面と向かって「わたしを愛しているか」と三度問われたは、大きな挫折を経験した弟子のペトロにとって決定的な出来事となりました。それは、食事が終わってからのことでした。魂でも霊でもなく、体をもってお甦りになった主イエスは、弟子たちと魚を召し上がりました。その前に、ガリラヤ湖で主イエスが姿を現されたので、ペトロはなんと、慌てて湖に飛び込んだ、というのです。

信仰の大先輩である植村正久牧師は、ユニークで、かつ説得力のあることを述べています。主イエスを一番に愛するか、という問いに答えることは、「本当にそれが彼の常の態度であるか、その試験をなさるために、イエスは暫時その気を静まるを待っておられ」て、求められるものだ、というのです。なるほど、動揺したり、落ち込んだり、反対に感極まったり、その時に主と出合い、関係が深められる、ということも起こり得ます。しかし、常の態度、ということも肝要です。師と弟の食事は、平常のことでした。主イエスはあえて、そのことを為さった。これまで通り、しかし、これまでより深く、より確かに、主イエスに従い、主イエスを愛する。その招きを私たちも受けているのです。

「善を行う者はいない。一人もいない。」(詩編14編3節)

 すごく悲観的な言葉です。詩人は誰に対してこのことを語ったのでしょうか。何を見て、こう言い切ったのでしょうか。

 すぐ近くの、周りの人たちです。身近な人々、それはイスラエルの民です。神の民とされた、信仰に生きるはずの人々。しかしそこにこそ、神への背きがあり、腐敗があった。私たちは、自分が正義である、と本当にいつも思い込んでいます。自分の中に善がある、と信じ込んでいます。そしてそのことを保障してくれる神、という偽りの信仰を盾にします。そこで争いが起きます。不和が生じます。お互いがお互いを認めない、その間に立っておられる神を見つめない、そこに、深い嘆きのような告白が生み出される。「善を行う者はいない。一人もいない」。

 このように、聖書によって示されないと、私たちの罪は見えてきません。でもここに、解決の糸口があります。正しい方が、まことに義なる方が、それでも存在する。その方との出合い、結びつきは、この悔い改めの告白から始まっていく、あるいは、深まっていく。ただ一人で悲観するのではありません。神の前で、全能の、赦しの神の前でそのことを為すのです。